ototoeのブログ

ほぼ日記帳

卓上解散

 本紹介というか、読んでいる中で気に入ったフレーズがあったので、書き残しておこうと思います。

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ドリアン・グレイの肖像

オスカー・ワイルド
『ドリアン・グレイの肖像』

原題『The Picture of Dorian Gray』

 

われとわが身を責めることには一種の悦楽がある。人間が自己非難をするとき、自分以外のだれも自分を責める権利がないと感じる。人間の罪状を消滅してくれるものは、牧師ではなく、告白なのだ。

引用元:新潮社 オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』より

 

 まだ読んでいる途中で全部で20章の構成となっており、その第8章190ページの6行目からこの言葉はあります。
 日常生活で無意識にしていた事が、文字となって目を通して頭に入ってきました。
言葉に対して「そうそう、そうなんだよな」と頷くというより、自分の知らない癖を他人に指摘された感じです。深い驚きかな。

 そしてその次に関心がくる。
 自己批判や自責の念を感じたりすることで自分の問題に対して満足(安心)してしまうことがあります。

 思い返せば、深く考えなくても何となくの流れに乗って生きてこられた人生から、自分の一存である程度どうにでもなるようになっているなと。フワフワ浮いていた自分が今では信頼や責任、心配という重石を引いて歩いています。


 少し小説の話をしますと、
 主要人物の一人であるヘンリー卿。彼の快楽主義的な人物像や当時の社交界や会員制クラブ、屋敷で人を招いての晩餐会。これらから見て取れる暮らしぶりや立ち回り方は、代々続いている名家生まれの主人公ドリアン・グレイに大きな影響を与えていきます。そんな彼がまだ青年の時の美しさを絵の中に閉じ込めた画家、バジル・フォールウォード。彼ら3人を主な登場人物として物語は進んでいきます。
 この本はイギリス文学というのでしょうか、高貴で博識さを持つ彼らを諄くも感じられるような言葉の言い回し。例え話でさえ才が伝わってきます。そして、ワイルド自身の性思考や当時の時代背景なども色濃く描写されているのが読んでいて興味を唆られます。

 

非日常に触れる。

 


おやすみなさい。